Happiness―最後に送る夢(シーンⅣ)

シーンⅣ  

 彼の目の前に居るものは小柄でやせ細った犬ぐらいの体を持っていた。薄汚い茶色い体躯は不潔な印象を与える。背中には数本の棘が確認でき、そして顔には、その小さな頭とは不釣り合いな程に大きい紅い瞳が爛々と輝いていた。

 そうこの生き物こそが件の吸血生物、チュパカブラだったのだ!

 彼が咲夜から聴いた話と何ら変わらない。咲夜の説明は本当に優秀なメイドだと、普段の彼なら素直に関心をしてしまうぐらいに、正確だったのだ。

その特徴を良く捉えた話でも、彼はここまで恐怖を感じる事は無かった。精々、不思議な生き物も居るものだ、と少々驚いただけである。

だが実際に相対してみれば、感想は違った。今、彼が味わっているのは恐怖だ。自分とは全く違う形、生態系、それどころか生まれた次元さえ違うかもしれない、そんな不気味な存在への恐怖。

いうならばコズミック・ホラーというものに晒されているのだ。

にらみ合いながらも、じりじりと少しずつ後ろへと下がる。外への道は「ヤツ」が塞いでいる、どうせ逃げ道は一つしか無かった。

下手に動けば、殺される。そう直感した彼はタイミングを見計らう。

長い時間が、彼らの間で流れていく。いや、実際は数秒にも満たない間だったかもしれない。

膠着状態の中、事態は動き出した。誰かが、大量の荷物等でも落としたのであろう。大きな音が辺りに響き渡る。

「ヤツ」は一瞬、それに気を取られた。それを見逃す彼ではない、素早く身を翻すと、さらに暗がりの中へと走り出した。

普段の彼ならあの音に驚いて、咄嗟に行動できなかったろう。

だが生死がかかった状況での緊張感が功を奏したのであった。

「ヤツ」も後追ってか、走り出した。ペタペタと不気味な足音が聞こえてくる。

逃げ出した彼に興味を失ってくれれば良かったものの、そうは問屋がおろさないようだ。一度狙った獲物は逃がさないというポリシーでもあるのかもしれない。

 そもそもチュパカブラの行動理念が、彼の想像力の範疇に当てはめられるかも分からなかったのであるが。

 いくつかの角を曲がる。残念ながら振り切る事は出来ない。それどころか徐々にその差は詰まっているように彼は思った。さっきよりも足音が大きく聞こえる。

「はぁっはぁっ! 何でこんな不気味なもんをレミリアってのは可愛がってんだよ……っ! 吸血鬼ってのは感性がどうかしてるんじゃないかっ!」

 彼は顔も知れない紅魔館の主へと悪態をつく。全く持って意味の無い事であったが、こうやって喚き散らしでもしなければ、彼の心は抑えられない恐怖によって瞬く間におかしくなってしまいそうだったのである。

 悪態をついている間にも二匹の差はどんどん縮まっていく。チュパカブラの走行速度は、彼の想像を大きく上回っていたのだ。そしてそれは、彼の走る速度をも上回っているのだ。

 しかし、彼は悪態をつきはしても、後ろを振り返る事はしなかった。彼我の距離は目で確認するまでもなく、足音から分かる。それに、追ってくる「ヤツ」を実際にその目で見てしまったら、もう二度と足を前へ踏み出すことが出来なくなってしまうと錯覚していたからだった。

 幸い、彼の足はまだ動く。肉体的疲労自体はまだまだ軽い物だった。今、恐れるべきは精神的な疲労だけである。

 そして彼は、怪我一つ見受けられない自分の足を見た。

「ありがとう、華扇―――怪我を直しといてくれて」

 彼は改めて、怪我をしていた自分を治療してくれた華扇に対して小さく感謝を述べる。彼が、「ヤツ」から逃げられるのは華扇の思いやりのがもたらしたものだったからだ。それに、華扇への感謝を口にしてみると、さっきまでざわついていた彼の心は、幾分か楽になった。不意に笑みがこぼれる。

「っとと、暢気に和んでるヒマじゃねぇな。さてこの状況をどうやっ―――て?」

 とここで彼はさっき見た自分の足をもう一度見てみる。

よく目を凝らしてみてみれば、いつの間にか足に何かが巻き付いている―――白い煙のような何かが、気づかないうちに。

「こんなの、いつの間に巻き付いていたんだ……?」

 彼は、もう一度目を凝らして、それを見た。

 

 その一瞬が命取りだった。

 

 彼はそれに気を取られたことにより、目の前にあった小石に気づかず、躓いた。

走りこんだ勢いそのままに、派手に転倒をする。

 一回、二回、三回と、頭を激しく揺さぶられるような回転をする。ボールのように見事に回転しながら転がり続けた彼は壁にぶち当たる事でようやく止まることが出来た。

「つぅっ、派手に躓いたもんだ……っ」

 よろめきながらも何とか、ゆっくりと立ち上がる。運が良い事に、体のどこを見ても大した怪我は見られなかった。

 ただし、走り続けなければいけなかった彼は立ち止まってしまった。

「ヤツ」が上から、彼を覗き込む。ついに追いつかれてしまった。

 退路を探そうと、慌てて後ろを振り返る。だがここは三方を家に囲まれており、後ろにあったのは希望の退路などでは無く、あったのはただの古ぼけた棚だけだった。

 もう逃げる事は出来ない、彼がそれを理解するのに数瞬もかからなかった。

 彼の体が突如として、力を失ったかのように崩れ落ちる。肉体的な疲労は全然無かったはずなのに、幾ら足に力を入れても―――動かない。

「逃げなくちゃならねぇのに……おかしい、足が、う、動かねぇ……っ!」

 心ではまだ認めていなかったが、体は既に敗北を認めていたのだ。三方を高い壁に囲まれ、一方を敵に塞がれ、逃げ場一つ無い状況、いくら彼の心が否定しようと、既に逃げて助かる術はない。

 「ヤツ」はいきなり襲ってくるような事はしなかった。彼をゆっくりと値踏みするように見ている。

 「ヤツ」の考えなど、理解したくもなかった彼だが、今この時だけは、相手の思考を理解出来ない事に苛立ちがつのる。

 そして数秒がたった頃だ。ついに「ヤツ」が動き出した。体をばねのように縮めていく。

 

 終わるなら早い方が良い、彼はもう既に諦めている。逃げる術もないならごく当然の反応だった。

 

 勢いをつけて、相手を押さえつけて仕留めるつもりなのだろう、まだまだ力を溜めている。

 

 逃げる事は確かに不可能だろう。だが―――

 

 溜めきり、押さえきれなくなった力を一気に解放する。足からじょじょに体が伸びきっていき、それらは全て、速さと力の糧となる。

 

 ―――だが少しだけ、ほんの少しだけなら、動く事は可能だった。

 

 「ヤツ」が飛び込んでくる。一筋の弾丸となって。

 

彼は「ヤツ」が飛び込んだ時……身を伏せた。彼の頭上を「ヤツ」が飛び越えていく。背中を長い爪が引っかいていった。血が飛び散った。彼は苦悶に顔を歪める。

 

彼は「ヤツ」を見事な動きで避けたのだ。

 

だがただ避けただけではない。その後についても彼には考えがある。

 彼を飛び越した「ヤツ」は何にも阻まれることも無く、後ろにあった古ぼけた棚へと吸い込まれていった。

 

派手な衝突音、崩れ落ちる棚、そして……その崩落に巻き込まれる「ヤツ」。

 

崩落の音ともに、耳障りで、甲高い叫び声が響き渡る。それは初めて聞いたチュパカブラの声だった。醜悪な外見に相応しい、耳が冒されるような酷い鳴き声であった。

 ゆっくりと残骸へと歩み寄る。木製の棚の部品に混じって、大量の陶器の欠片も見られた。

「つぅ~ 何とかなったのか……?」

 実は彼が、この棚を見つけた時に、棚には大量の陶製の器が載っていたのを発見していた。

そして考えたのだ。これだけの重量を上から加えられれば、小柄なヤツに手傷を負わせられるのではないかと。

「結果は御覧の通りってか。本当に上手くいくとは思わなかったがなぁ。」

 彼は唯一、一つだけ、生き残った壺をまじまじと見やる。その壺はどこかで作り手の精神がねじ曲がっていたのか歪んでおり、彼はこれに少しだけ既視感を覚えた。

「……にしても。まぁ~た、救われちまったかぁ」  

 彼はここには居ない、一人の仙人へと、独り言のように礼を告げる。

 生きることを諦めてしまっていた彼を救ったのは、またもや彼女、茨木華扇だったのだ。

彼女への貰った恩という物が、彼の生きる活力、生き残る意志へと変わっていったのだ。貰った恩の分は、生きなければと、そう思ったのだ。

「って、感傷に浸っている場合じゃなかったっ! 早く戻んねぇと」

 彼は待たせているであろう華扇を思い出すと、慌てだした。きっと、彼女の事だ。心配しているだろう。

 急いで戻ろうと、彼が身を翻した時……異変は起こった。

 

唐突に棚の残骸の一部が吹き飛んだのだ。

 

突然の事態の急変に、彼は反応が遅れる。

 彼が状況を理解した時、既に彼は地に組み伏せられていた。

彼の表情が再び、恐怖に染まる―――

「なっ、あっ、が……っ?」 

 今彼を押さえつけているみすぼらしい手の持ち主は、もちろんチュパカブラだ。それは彼も、瓦礫の山が吹き飛んだ時に、「ヤツ」が出てきた可能性は考えていた。

 だが彼の予想の範疇を超える事柄もあった。

 

 ―――ヤツは無傷だったのだ、あれだけの重量に潰されても、なお。

 

 彼の心を凄い勢いで、絶望という名の暗雲が覆い尽くす。

彼の中で―――何かが折れた音がした。

 彼は、運命の事を「希望」と呼んだ。生きていくうえで縋る事の出来る博打の一つだと。

 そして今、彼はその希望に殺されかけていた。運命に従えば、彼の命はここまでらしい。彼が振り絞った勇気も、華扇への恩義も、彼の生きたいという願望さえも運命の前では等しく塵芥と同じなのだ。

 その事実が……全てが無駄だという事実が、彼の心を蹂躙した。

 

嗚呼、運命とは、かくも非情なモノなり。悲しむべき事

に、彼の命は、もうすぐ終わる。これが運命の選択。

 

 彼の頬を、一筋の涙が伝う。水滴は「ヤツ」の干からびた手の甲に吸い込まれて消えた。

 長い爪が頬に食い込む。接触した部分から血が流れだして来たが、今の彼にそんな事は気にならなかった。

 「ヤツ」の顔は目と鼻の先だ、何時最後の瞬間が訪れたとしてもおかしくはない。

 彼はゆっくりと目を閉じる。目を閉じたのは、気持ちに整理をつける事が目的であり、何よりもこうすれば、これ以上「ヤツ」の醜悪な顔を見ずにすんだからだった。

 黙って、最後の時を待つ。さっきまでざわついていた心はいつの間にか、風の凪いだ水面のように静かになっていた。彼自身が驚くほどに、心は落ち着いている。

 彼は別に、運命に見放されたとは思っていない。希望を打ち砕かれたと、絶望はしたが、それをひっくるめての運命なのだ。

運命は誰の味方でも無い、運命が誰かに肩入れすることなどあり得ない。故に、彼は運命を恨まない。

 それに彼は、酷な最後を押し付けて来た運命に、感謝すらしていた。

 何故ならば、外の世界で平凡にのたれ死ぬはずだった彼に、最初で最後の、最高な出会いをプレゼントしてくれたのだから。面倒くさがりの霊夢、好奇心旺盛な魔理沙、完全瀟洒なメイド、咲夜。そして―――最後の時を楽しく過ごした華扇。どれも短いながら、濃ゆい出会いだった。彼が一生をかけても出会えないぐらい、最高な出会い。

 そしてこの幻想郷には彼女達と同じくらいに愉快な面子が他にもいるという話を思い出して、彼は無性に会いたくなった。

 

もう、叶わぬ願いだが。

 

「せめて……レミリアっていう奴には会ってみたかったなぁ。会って、文句だけでも言ってやりたいぜ……」

 ぼやきが思わず、口から漏れる。幽霊になって会ってやろうかと、そんな事を彼は本気で考えた瞬間だった。

 さて、咲夜に聞いた話では、チュパカブラに襲われた獲物は、血を吸われきって死ぬらしい。

 目を閉じている彼には良くは分からないが、「ヤツ」が動いたのが感触から分かった。血を吸うつもりなのだろう。

なかなか吸ってこないのは、吸い始める場所を選んでいるのかもしれない。どこから吸っても変わらないだろうにと、彼は心の中で嘲笑った。

 

 ついに彼に最後の時が訪れたのだ!

 

 と思い、身を固めた彼だったが、何時まで経っても血を吸われるという異質な体験は訪れない。 

 流石に不思議に思い、彼がおずおずと目を開くと、そこには驚くべき光景が広がっていた。

 「ヤツ」が首元を押さえて、苦しんでいたのだ。 

もがき苦しむ「ヤツ」の首を、包帯で出来た手の様な物が締め付けている。そしてその腕は、どこか華扇の右腕に似ていて―――

 

「やっと、見つけましたよ。全く、勝手に出歩いては駄目ですよ? まだ怪我も完治していないわけですし」

 

 彼は一瞬、これは自分の幻聴かと思った。ここに居るわけがない人物の声が聞こえてくる、それは幻聴と呼ぶべきものだ。

 だが、今、助からないと思っていた自分に、イレギュラーが起こっている今なら、もう一つぐらいイレギュラーがあっても良い、そう思い彼は声のする後ろを振り向く。

 そこには……仙人で、動物思いで、彼の新しい家主である、茨木華扇が、少し怒り気味ながらも、微笑みを湛えながら立っていた。

 彼女は、彼の顏を見てさらに笑みを濃くした後、少し力んだ顔をする。

 それに連動してか、「ヤツ」の首に絡みついた腕にも力が入った。

 ぴぎぃと、短い悲鳴をあげ、「ヤツ」は気絶する。

 

 茨木華扇によって、今ここに人里を徘徊する吸血生物、チュパカブラが捕獲された瞬間であった。