シーンⅢ
ここを一言で表すとするなら、彼は人情の里と答える。
道行く人の顔や、呼び込む店員の掛け声、それらからは外の世界では見かける事の出来ない温かさを感じる。
ここは忘れ去られたモノの行きつく先だと、彼は不意に思い出す。オカルトチックな事だけではなく、このような当たり前の事まで忘れ去られていくのだと思うと彼は悲しさを覚えた。
町を回っている途中で、大きな広場を見つける。子供が数人かけっこをしてはしゃぎ回っており、ここが子供達の遊び場になっている事をうかがわせた。
走り回っている子供たちはどの子も、笑顔に満ち溢れていて未来への希望を感じさせる。この事からどこの世界でも子供が持ち合わせているエネルギーだけは、変わることはないと思わされる。
彼は不変の存在を見つけられた事に少し安堵した。変化する事も良いが、ただ失われるだけの変化には未来はない。
陶芸品を扱う店なども見つけた。華扇が覗いてみたいという事なので店内へ。
度々里へは訪れるだろうに、とても新鮮そうに楽しんでいる。案内人の方が嬉しそうに観光をする等おかしな話だ。
陳列されている、珍妙な形の壺を見て楽しそうに笑っている。
確かに、思わず吹き出してしまいそうな位、性根の曲がっていそうな壺であったが、そこまで笑う程とも彼は思えなかった。
しかし、彼女の笑顔を見ることが出来た事の前では全てが些細な事だと、振り返った彼は思う事にする。彼女の笑顔を見ることができれば過程なんて些末な物、笑顔の理由なんてどうでも良い。そう思えるだけに彼女の楽しそうな笑顔は眩しかった。
彼女の笑顔に釣られて、彼もくすくすと、静かに笑いを漏らしていると、座敷に方に座っていた気難しそうな老齢の男が咳払いをする。薄汚れた作業着のような着物から察するに、ここにある全ての作品の作者兼、店主といったところであろう。そして今、その彫りの深い顔からは苛立ちが見て取れた。
華扇は慌てて、さっきまで緩んでいた口元を引き締める。見事なまでの切り替えだったものの時既に遅し。店主の表情は変わらない―――要するに怒っていた。
流石の華扇もごまかしきれないと気付いたのか。
「ごめんなさいっ、とても面白い壺だったので!」
詫びを入れると、店主の反応も確認せずに早々に店を後にした。
「正直、詫びにすらなってないな。面白い壺って小馬鹿にしてるだろ、絶対。分かってやってるんだろ?」
店から風のように遠ざかる最中、彼女に問いを投げかけてみる。こう訊ねられた華扇の反応は、まるで頭の上に本当に疑問符を浮かべているかのようであった。
もしかして彼女は純粋な気持ちで先のような言葉を口にしたのであろうか。ならば、華扇というのは微妙に常人とは感性が違うのかもしれない。そもそも仙人自体、このような感性が当たり前なのだろうか。華扇以外の仙人に会った事も無い彼にそれは分からない。
ただし分かる事もある。
猫の方が彼女よりもまともな感性の持ち主という馬鹿馬鹿しい事実………だ。
大分、里を歩き回っただろうか。陶芸店を訪れた後も様々な店を見て回った。古本屋に、酒造店。川魚を扱った鮮魚店等、本当に様々な種類の店である。
流石に幻想郷唯一の人が住む里だ、人が生活をするのに必要な物が全て揃っていた。そしてここは彼らの住居も集合している。
外の世界でなら、大きなショッピングモールの中に住宅街があるようなモノだと彼は例えてみた。車の必要のない近さ、正に便利な立地とはこのようなものを指すのだろう。
それにここは魑魅魍魎が跋扈する不可思議の地、外の世界のように物理法則に支配されたわけではないこの地なら人が一カ所に集まるという事は、利便性の面だけではなく、安全性の面でもとても合理的な考えとも言えた。
一人で居るよりも、グループを組んで行動する、それは長い生命の歴史の中で確立された生存戦略の一つなのだ。
だが、それは紛れ込むものを防ぐ手段とはなりえない。
集まるというのは異物が混ざる事の出来る場所を作る事でもある。隙をついて怪異は迫ってくるかもしれない。現に今だって、咲夜の話に聴いた吸血生物が里の暗がりに潜んでいる可能性だって考えられる。
チュパカブラは自分より大きい生物の血を吸う事もあるという話を彼は唐突に思い出した。
その中には人も含まれているはずである。
それと逆に小動物の血だってお構いなく吸うだろう。ネズミや―――彼のような猫も本能のままに。
彼はそこまで想像した所で、余りの恐ろしい想像に体を震わせた。
そして、すぐに自分自身の逞しい想像力に嫌気がさす。この世のモノとも思えない化け物に殺される可能性など、普通考える事ではなかった。
頭を振り払い、縁起の悪い想像を追い払う。今は観光を楽しむ事に尽力するべきであった。
華扇は今、様々な種類の鈴を見ている。実際に手にとって確かめていたりもした。ここは鈴の専門店らしい。
本当にどんな店もある里である。正直、彼には鈴にこれだけの種類がある必要性が全く持って分からなかったが。
猛烈に理解しがたい疑問に頭を捻っている彼は店の外で華扇を待っている途中だ。
華扇が物を手に取ってみるため、人の邪魔にならないようにそこで待つように言われたのだ。それに店内に居て、人に蹴られたりされようものなら彼からしてみればたまったものでは無い。
店内で小指サイズの小さな鈴を撫でまわしている彼女を、喜々としている彼女を、彼は温かな微笑みを浮かべながら見やる。
彼は今日から、あの可愛らしく笑みを浮かべる、仙人の下で世話になる。明日の食事にすら昨日までは困っていた。
そんな彼が、今では異世界のような地に迷い込み、仙人なんていう昔話の登場人物に拾われるなど、誰に予測がついたであろうか。つくはずもない。
運命は予測不可能なものだと、彼は改めて理解した。当人にすら介入を許されない博打―――それこそが運命という物だった。
「やっぱり、縋るものはあるに越したことはないって事だな。どんなに辛くたって運命という名の希望があるのは良い事だな」
彼はしみじみと一人ごちる。彼の中で重要な位置を占める持論が誕生した瞬間であった。
そんな時だった、感傷に浸っていた彼が、里の暗がりに動体の気配を感じたのは。
向かい側の建物と建物の間に小さな何かが蠢ているような気がしたのであった。
それは純粋な好奇心だった。ただ気になる事が一つあったから、それを確認するというごく当たり前の行動。
足を一歩、また一歩と暗がりに向かって踏み出す。
別に何か居たとしても大層な物ではないだろう、精々ネズミが這いずり回っていたのだと、彼は思った。人の住む場所の隅にそういう小動物はいるものだ。
だから大きな期待はしていなかった。
暗がりの中に足を踏み入れる。そこは板張りの家々に挟まれた、人が一人通る事が出来るかどうかというぐらいには狭い隙間であった。だから、彼ぐらいに小さければ入るのには問題はない。
「んっ……やっぱり、何もいねぇかぁ」
ゆっくりと隙間の中を見回してみる。何も見つけられない。
暗がりの奥に目を良く凝らしてもみた。だけれど、ここには、何一つ動き回るようなものなど確認できない。それどころか草一本すら生えていなかった。
「しゃぁなし、戻るとするか……」
先ほど見たものが自分の見間違いだと思い、落胆する彼。
それほどまでに彼は暗がりに対しての視覚に自信を持っていた。
自信を打ち砕かれて、肩を落としながらも、彼は早々に光射す方へと歩き出す。
早く戻らなくては、彼女が店を出た時に心配をかけてしまうという彼なりの思いやりから来る行動であった。
とここで振り返った彼に幸運が訪れる。突如として上から子犬ほどの物体が落ちてきたのである。
それは生物だった。さっきは何も居ないと思っていたにである。
どうやら、壁伝いに移動していたようだ。
それは喜ばしい事に彼の見間違いなどでは無かったという事だ! これで彼はこれからも自分の視覚に自信を持ち続けることが出来るだろう。
だが彼の反応は、自分の視覚が正常だった事への安堵でも、好奇心の対象が実際にいた事への喜びのどちらでも無い。いきなり目の前に物体が降って来た時の驚愕もそれの姿を目に捉えた時にはかき消えた。
あるのはただ―――純粋な恐怖だけ。
「っつっつ! あ、あ、紅い瞳……っ!」
言葉に出来たのはたった一言、それだけ。それ以上は思うように口から言葉を発する事は出来なかった。
確かに彼の自信が取り戻せたのなら、彼が興味を抱いた対象に出会えたなら、それは幸運な事だったはずだ。
だが、世の中には受けた幸運と釣り合わない程に不幸を被る事もあるのだ。
今、この出会いは彼を不幸と呼ぶに値する。