Happiness―最後に送る夢(シーンⅠ)

 

 

シーンⅠ

 澄みわたった空の下。彼の前には紅白と黒白がいた。

 綺麗に石が敷き詰められた神社の境内には二人の女の子が他愛もない世間話をしている。

「―――でね、ついつい小鈴ちゃんから借りた本をいっきに読んじゃってね。雨で暇じゃない? だから閉じこもってたんだけど、体、鈍っちゃったりしてないかしら?」

 一人は紅と白の腋を出すデザインの巫女服を着ている。

「へぇ、お前ってそんなに熱心になって本を読んだりするんだな。てっきり暇な時は縁側でずっとお茶飲んだりしてるんじゃあないかと思ったぜ? まぁ、雨で暇だったのなら分かるかもしれんがな」

 もう一人は、童話に出てくる魔法使いのような風貌だった。こちらの服の色は大まかに言えば、黒と白だ。

 巫女は半目で魔法使いを睨む。

「アンタ、私を何だと思っているの?」

「うーんとな、異変でも起きなきゃ金儲けの事を考えて生活しているような巫女って感じか?」

 思い当たる節があったのか、巫女、博麗霊夢はうっ、と言葉を詰まらせる。

「否定しねぇのかよ。金儲けの事しか考えて無いとか、神職として間違ってねぇか?」

 そこで彼は初めて口を開いた。余りにも、霊夢という巫女が情けなかったからである。しかし彼の落胆を含ませた非難は届かなかったかのように会話は進められた。

「ねぇ、魔理沙? ちょっと肩慣らしついでに弾幕勝負に付き合ってくれないかしら?」

 と不敵な笑みを浮かべなら言う。

「望むところだぜっ! ……と言いたいところだがお前のその笑い方はどこか怖いからな、ちょっと遠慮させてもらうぜ」

「あら、残念ね。力づくで私への認識を改めてもらおうかと思ったのに……」

「そんな事だろうと思ったぜ!」

「こりゃ酷い。困ったらすぐに力技で解決ってのはな。もう少し優雅にできないもんか」

 彼は残念なものを見るような目で霊夢を見る。言葉も刺々しい。

だがまたもや彼女達には聞こえてないかのようだった。おかしな話である。これだけ酷く言われていても不快感一つ示さないような人間がいるのだろうか?

大小問わずにして、何かしらの反応を見せるのが人間として普通の感性だろう。

「そういえば、ねぇ、華扇?」

 とここでこの会話を静かに見守っていた第三の人物、茨木華扇へと霊夢は疑問を投げかけた。

「何かしら、霊夢?」

「何かしらって、そのさっきからにゃぁにゃぁ騒いでるそれはどうしたのよって事よ」

 霊夢はビッと指を指す。指の先がさし示すのは彼女が腕に抱えているものだった。腕の中に抱えられていたのは彼―――黒い猫―――であった。彼は突然の事に少し驚きを露わにする。

「うぉぉぉぉ、ビックリしたな。いきなり指をさすんじゃねぇよ」

「霊夢、こいつ何か少し怒ってるみたいだぜ?」

「知らないわよ、何を言っているのか判らないし。でも正直言うと、本当はさっきから何か馬鹿にされているような気はするけどね。で、それ。どうしたのよ、華扇?」

 訊ねられた華扇はゆっくりと話し始めた。さっき神社前の階段であったことを。

「この子はね、拾ったのよ」

 ぼろぼろになった毛並みを整えるように撫でる。彼は気持ちが良かったので身をよじらせた。

「拾ったって、どこでよ?」

「階段の所ですよ。脇で倒れている所を見つけました」

「ぶっ倒れていたって割にやぁ、元気そうに見えるんだが? 態度的にも、なんていうか、余裕に満ち溢れているように見えるぜ?」

「それは私が力の出る丸薬を与えたからです、とても弱っていて危険だったので。傷が治るわけではありませんが動くことぐらいはできるようになったでしょう」

「ふーん、まぁ、動物好きのあなただもんね。猫一匹助ける事ぐらい、全然不思議でもないわね」

「はぁ、力の出る丸薬かぁ。後学のために調合方法を訊いておきたいところだぜ。何かに使えるかもしれないしな」

 霊夢は自分で訊いておきながらも、興味のないように返す。特段おかしなところが無かったからであろう。普段通りと判断したのだ。

魔理沙は魔理沙で別の部分へと食いついている。彼が魔理沙という人間の身勝手さを感じた瞬間だった。

「で、そいつどうするわけ? 野良猫なの? ネズミ捕り用の猫だったら、里に届けるぐらいはしてあげなきゃいけないわねぇ……」

 面倒そうに言う霊夢の言葉を、華扇はすぐに否定した。

「いえ、里の猫では無いわね。それにただの野良猫でも

ないわ。この子の話を聞いたところに依るとね」

「どういうことなんだ、回りくどすぎるぜ?」

 魔理沙は頭に疑問符を浮かべた。華扇の含みのある言い回しからはいまいち、意味が掴めない。この疑問に答えたのは華扇ではなく霊夢だった。

「……外から来た猫なんでしょ? その猫」

「当たりですね。この子は外の世界で元々飼われていた猫でした。ですが捨てられ、放浪した末にここに辿り着いた……とこの子は言っていました」

「はぁ、コイツ、外から来た猫なのかぁ。ふーむ」

「ッツ! なんでこんなにじろじろ見るんだ、こいつ?

猫なんて珍しくもねぇだろうに……」

 魔理沙は品定めするかのように、彼を見る。じっ、と見つめられた彼は視線を彼女から逸らした。恥ずかしくなったのだ。

それと同時に余りにも不躾な視線に怒りも感じていた。見世物のようにされるのは誰だって嫌いである。

「ふむむっ、やっぱりこっちの猫となんの違いも無いな」

 根気よく、彼を見続けていた魔理沙であったがついに違いを見つけることはできなかった。魔理沙は彼から興味を失くしたように視線を外す。

「違いなんてあるわけないじゃない。ただの猫よ? それより華扇。訊いておくけど、こいつは人の言葉は解るのよね?」

「えぇ、動物というのは人が思っている以上に賢いものです。話すことができないのは体の作りの問題ですし」

「そう、ならいいわ。えーと、あなた名前は?」

「俺には名前なんて付けられてないぞ、飼われてたのも少しの間だけだったしな」

「無いって、言ってるわ」

 すぐさま華扇が通訳をする。

「じゃあ、黒猫。黒猫で。あなたには私から説明すべき事があるわ。その後、私はあなたに一つだけ質問をする。この話はその質問に答える時の判断材料にすること。いいわね?」

「あ、あぁ? 何だよ、いきなり改まって」

 彼は霊夢の唐突な雰囲気の変化についていけてなかった。さっきまでののんびりとした空気は何処かへと消え去ってしまっていたのである。

「そんな不思議そうな顔をしないで、これは今後のあなたの身の振り方に関係する事なの。真面目に聴いて欲しい事なの。理解したのなら一回、首を傾けなさい」

 晴れ渡った空の下、澄んだ夏の空気の中。彼は自分の周りの空気が次第に淀んでいくように錯覚した。暗く、重く、深く。澄んだ空気は徐々に変貌を遂げる。

 彼は華扇の腕の中で無意識に右手を動かしていた。本当に自分の周りだけ空気の重さが何倍にも増えてしまったのではないか、と彼は心のどこかで心配してしまったのだろうか。そんな事があるわけない、と猫の身でも判っているのに。

 どこかうすら寒いものを感じながらも彼は、首を前に倒した。自分の今後に関わるとなれば聴いておくしかない。他人事では済まないのだから、無関心ではいられない。

 霊夢は彼が首を振ったのを見ると、安堵したかのように微笑んだ。とても綺麗な笑みだった。

彼女の持っている純粋さが全て集まったらあのような笑みができるのだろう。

だが心にまとわりつく暗く、重く、深いしこりが取れることはなかった。

 こほん、と可愛らしい咳を一つ。霊夢は『説明すべき事』をゆっくりと言い聞かせるように話し始めた。

 

 忘れ去られたモノ達が集う、東の地のマヨイガの話を。

  

 彼女の話はどれも彼にとっては驚きの連続であった。彼はただの猫である。

故に知識というものにはそう多く持ち合わせているわけではなかった。自分の飼い主が見ていたテレビや自分がその足を使って見聞きした事ぐらいしか知らない。

だが、それでも彼女が話す『幻想郷』とやらの異常性は理解できたのだ。外の世界では空想の存在である妖怪や幽霊が犬猫と同じように当たり前に居て、神様が信仰を集めるために、幻想郷の発展に自ら貢献するなど、にわかに信じがたいことばかりだったからだ。

超常的存在が跳梁跋扈する。その異常の塊、幻想郷に彼は大きく恐怖を示した。

霊夢が言うにはこの異端の集まる地、幻想郷にもいくつかルールがあるらしい。曰く、妖怪は『この地に住む人間』を襲ってはいけないとか。曰く、この地では数々の戦いが妖怪、人間、神様等の間で行われていて、その戦いはスペルカードルールとやらに則って行うことにするとか。数々のルールが定められていた。異常ではあるが無法ではないらしい。

他にも幻想郷の成り立ちについて、かいつまんで説明をされた。

だが古の時代から紡がれてきた長い昔話は今を生きる彼には退屈なものであった。非力で生きるのに精いっぱいな彼にとって、太古の記憶に馳せる余裕など、ない。先人から託された火を消さないように憂える事もない。それよりも今日の夕飯の事の方が重要だった。

彼を拾ってくれた女性は、茨木華扇と言うらしい。この女性は茨華仙という仙人らしいが、オカルト世界の階級や称号などに詳しくない彼にとっては、いまいちピンと来ない事柄だった。

「……そして、ここからが本題よ。あなた―――ここに残るつもりなの? この魑魅魍魎が平然と存在する場所に」

幻想郷から出る場合は霊夢の力を使えばすぐに出ることが出来る。だがもし幻想郷に残るとしたら彼女を頼ると良い、と霊夢は言った。華扇もすぐに「ここに止まるならば私の所に来なさい。動物なら、幾らでも構いませんので」と肯定してくれる。

彼は不思議そうな目で彼女を見た。見ず知らずの、ただの猫にそこまで親切にする理由が分からなかったのだ

華扇はその視線に対し、「これも仙人の修行の一環ですから」と答える。どうやら善行を積むという事自体が、仙人の修行の一環らしい。

それともう一つ理由があった。どうやら華扇は動物の事に目がないのだとか。霊夢が苦笑い気味に、魔理沙が快活そうに、華扇自身が柔和な笑みを浮かべながら口々にそう教えてくれた。

霊夢は小声で「動物園……」と呟いている。華扇と今日会ったばかりの彼には彼女に何があったのかは知る由もなかった。

一通り話を聞き終えた彼は、静かに黙り込んでいる。想像を絶する話の連続に頭が追いついていないのだ。

誰も口を開かない。

じりじりと夏の日差しが彼らの肌を焼きながら、時間がゆったりと流れていく。これは彼が決めるべき事柄である。口出しは無用というわけだった。

彼の脳裏に、ここに来るまでの出来事の数々が浮かんでは、消えていく。人間に捨てられ、雨の中を彷徨い、歩いてきた日々を。恥も外聞も無く、ゴミの山を漁って食いつないだ夜を。そのわずかな食糧を巡って同族と争い戦った時を。目を逸らしたくなるような屈辱の月日だった。

改めて彼は、自分を抱えている一人の女性へと、顔を向ける。彼女は彼と視線が合うと、静かに微笑んだ。

とても優しい笑みだった。その笑顔に彼は一つの可能性を見る。

彼は捨てられ、結果的にこのような魔境へと流れついた。だから仙人とはいえ、人間の下で世話になるというのは良くは思っていない。

しかし彼の命が繋がれたのは、彼女のおかげでもある。そのたった一つの確かな真実。

 

それは、彼に彼女を信じさせるには十分な理由だった。

 

それに、このような異形が跋扈する魔境にも興味があった。忘れ去られた怪奇の数々は彼の好奇心を大いに掻き立てる。外の世界と決別しようと思うには丁度いい機会だ。

だが、その怪奇と共に生きるという事は危険がつきまとう。それ故にここで安心して暮らすには安全が約束された場所が必要となる。

その点、この話は彼にとって願ってもないものだった。寝床と食事を準備してくれると言うのだから、断るわけがない。

彼は以上の二点から、首を縦に振った。肯定の意だった。

問いに対しての答えを見て、彼女たちは各々の反応を見せる。

魔理沙は「にしし」と屈託な笑みを浮かべ、よろしくな、と一言、言葉を伝えた。

霊夢は溜め息を一つ、ついた。このような場所に残ろうとする彼のちっぽけな冒険心に呆れているのだろう。

「まぁ、何よ。……よろしくね」

 その後、彼女は小さくお辞儀した。

 華扇は腕の中に居る、小さな放浪者をぎゅっと抱きしめると、耳元に小声で話しかけた。

「あなたは、ここに来るまでにさまざまな体験をして来たのでしょう…… 人間のエゴによって。でも安心なさい、ここは全てを受け入れる場所です。生き物達があるべき姿でいれる場所です。そして私もあなたを受け入れ、歓迎します」

「………」

 彼は黙って、話を聞いていた。彼女の真意を量りきれなかったからだ。彼女はさらに言葉を続ける。

「ここでは色々あるでしょう。あなたの望むような事から、望まない事まで。でもこれだけは約束します。

 どんな過程を経たとしても。あなたの最後は幸せでいられると約束します。

 だからこれから、よろしくね」

 彼は言葉を出せずにいた。結局、彼は彼女が伝えようとしている事の八割は理解が出来ていない。

まるで、どこか遠くにいる誰かについて話しているようで、自分に向けられた言葉とは思えなかったからだ。

 だけどその中に確実に自分へと向けられた言葉があったのも事実である。彼はそれに対して、応えなければならない。

「あんたの言ってる事はぁ、難しすぎて、分からねぇ。―――けどよ、最後のは分かったぜ。これからはよろしくお願いするな、華扇。そしてありがとう、助けてくれて」

 ぶっきらぼうな口調でそう言い放つ。だがそこにはしっかりと彼から彼女への礼が込められていた。

 彼は肉球のついたその柔らかい手を華扇へと差し伸ばす。それを見た彼女は、ゆっくりとその手を握り返した。

 霊夢と魔理沙がそれを少しだけ、羨ましそうに見ていたのはここだけの話だった。