幕間―届けMY HEART

 

   HAPPINESS ―届けマイハート―

 

 ―――一つだけ。ただ一つだけ、彼には悩み事があった。

 その悩み事とは―――

 

「はぁ、話が通じないって不便だなぁ…」

 きらびやかに咲き誇る花々を見ながら、溜め息を一つ吐く。

 彼が今居るのは、華扇の住む住居である。家主である華扇は外出をしており、今は居ない。

ここは、とても不思議な空間だった。

 今の季節は夏だ。しかし、ここの降りそそぐ陽光は肌を刺すような夏の日差しではなく、春のような穏やかな陽光であった。

空気も纏わりつくようなジメジメとしたものではなく、爽やかなものとなっている。

 華扇に訊いたところによると、ここは華扇の力によって作られたものだという話だった。そのおかげでここは、夏や冬でも住みやすい気候となっており、美しい花が咲いているわけであった。

 さて、話を最初に戻すが彼の悩みは『話が通じない事が不便』ということである。

 これは別に、話し合いで相手に上手く、自分の意図が伝わらない、という事ではない。ここで言う話が通じないというのは、人間の言葉を話す事が出来ない事により起こっている障害の事だ。

 何故、彼がこのような悩みを抱いているのか。それは、彼が華扇の家に厄介になっている事と関係していた。

 彼は、行き倒れていた所を華扇に拾われて、ここに住むことになった。その結果、彼は彼女の友人たちとも交友を持つわけに至ったのだが、ここで一つ大きな問題が発生したのだ。

 

 彼は、人間ではない。猫なのだ、一匹の黒猫なのだ。

 

 華扇相手なら別に大丈夫であった。彼女は動物との会話が可能であったからだ。

 だが他の人にはそういうわけもいかない。

「確かに華扇がその都度、通訳をしてくれるから助かってはいるが……やっぱり、それだと少し不便だしなぁ。それに、一々通訳を頼むのも、手間ばかりかけていて悪いし……むぅ」

 彼は、小さく唸った後、黙り込む。

 しばらく静かに良い考えは無いかと考えていた彼だったが、全く思いつかず、ばたんと、前に倒れこんだ。

「やっぱり、思いつかねぇ~」 

彼の脳みそでは、そうやすやすと良い方法など見つかるわけも無かった。

「……もう、字の練習でもして、それで伝えちまおうかなぁ。『字を書く天才猫現る!』みたいな方向で」

下らない妄想をしながら、決めポーズをとってみる。これが存外に、楽しかった。

 

「―――帰って来てみれば、あなた、一体何をしているの……?」

しばらく、バカのように様々なポーズをとっていた彼の背に、言葉が投げかけられる。

 家主が帰宅した模様だった。

「うっ……お、おかえりだ、華扇。

 ―――今の、見てたのか?」

「ただいま、ゆき。そうね、途中からですが、バッチリと見ていましたよ。両手を空へと突き上げて、まるで歓声に応えるかのような仕草をしていたのを。新しい見世物の予行演習でもしていたのかしら?」

「いやぁ、そういうわけじゃぁ、無いんだけどな……」

 恥ずかしそうに、頭を掻くゆき。それを華扇はクスクスと可笑しそうに見やる。

 どうやら、彼はからかわれてしまったようだ。一層恥ずかしさが増し、顔を真っ赤に染める。

 穏やかな春の風が流れ込む。風が花のかぐわしい香りを運び、二人の間を満たした。

 二人は、静かに、風の音を、花の香りを、降りそ、そぐ陽光を味わった。

 彼らはどれほどだけ、この心地の良い時間に身を委ねていただろうか。

「―――実はなぁ、一つ悩みがあるんだよ」 

長い間、沈黙が保たれていた二人の間に、彼は一石を投じる事にする。

 一人で抱え込むぐらいなら、誰かに相談してみる方が良いだろうと考えての事だった。

「悩み? どのような内容の物なのかしら?」

 華扇はしゃがみこみ、ゆきの頭を撫でる。優しく、とても慈愛に満ちた手つきだ。

 ゆきは意を決して、華扇へと抱え込んでいる悩みを打ち明けた。

 華扇以外の人間と意思の疎通が取りづらい事。どうにかして、意思を直接伝える事は出来ないかという事。彼にとっての悩みはまとめるとこのような内容になった。

 さて、これらを聞いた華扇の反応はというと。

 

「その悩みの解決方法、私に用意できますよ?」

 

「そうだよなぁ。例えこの幻想郷といえど、そんな事はできるわけ……ってえぇぇぇぇぇ!」

 落胆で頭を下げようとしたゆきは、勢いよく顔を上げた。その勢いたるや、跳ね橋などの比ではない。

 あっさりとした口調とは裏腹に飛び出したのは、衝撃の一言。驚かずにはいられなかった。

 放心したかのように、口をぽかんと開けて華扇を見つめるゆき。彼の頭は理解が追いついていない。

「まさに開いた口が塞がらないといった顔ね……そもそも今日出かけて来たのは、それに関係していた用事だったのよ?」

 そう言いながら華扇は、固まっているゆきの前に帯状の物体を差し出した。

 長さは丁度彼の首に巻ける程度といったところだろうか。厚みや幅はそこまでない。

 外の世界でペットに使われている首輪といったものだ。

 材質の方は、革製であり、表面には幾つかの丸いボタンが並んでいる。

 さて、ここで注意すべき事だが、首輪についているボタンというのは、洋服についているようなボタンの事を指しているわけではない。

 彼が外の世界に居た時の経験から近いものを挙げるとするならば、これは……

「……何かの操作に使うようなボタンか、これ? 押すことで機能が作動するとかそういう類のボタン」

 彼の問いに対して、華扇は頷くことで肯定の意を示す。

「これは元々幻想郷で造られたものではありません、外の世界から流れて来た『機械』です。

 今日、香霖堂で見かけたので譲って頂きました」

 彼は改めてまじまじとその首輪、いや『魑魅魍魎が跋扈する異世界に紛れ込んだ異物』を見つめた。

 彼は素直に驚いていた。一度は縁を切ったと思われていた人工物、物質文明の最先端にこのような形で巡り合えたのだから。

「―――それで、こいつはどうやって俺の悩みを解決してくれるわけなんだ?」

 彼の鼓動は否応なく高鳴っている。

一度は捨てた自分の過去、それの僅かな残滓に縋っている彼の姿は、人によっては酷く滑稽に見えたかもしれない。

だがこの際、そんな事を気にしている暇は無かった。必要の無いプライドなど彼は、向こうでの生活の中で捨てて来たのだから。

「そんなに慌てなくても、今から説明してあげるわよ。……もう少し落ち着きなさい」

 勢いよく詰め寄ってくる彼に、華扇は困ったような笑みを浮かべる。

 彼は華扇の言葉に従い、居住まいを正す。

……少々うずうずしていたが。

彼の体は多少落ち着いたが、心まではそうはいかない。華扇の話が待ち遠しくてたまらないのだった。

 よそよそしさを隠せていない彼を見て、華扇はまた、クスリと、笑みをこぼした。

「ふふっ、では説明するとしましょうかしら」

彼の胸が張り裂けそうなぐらいに期待が高まった時、華扇は語り始める。

 

「でも説明するには、」

 

 始まったのだが…… 

 

「まず手に入れた経緯から説明する必要があるかしらね……」

 ただし。長い長い、前置き含めてだったが。

 

華扇は過去へと思いを馳せるように目を閉じながら、今日あった出来事を語りだす。

 

 

 

幻想郷には、魔法の森と呼ばれる森が存在している。

幻想郷で唯一の不思議な森。その入り口には幻想郷唯一の奇妙な道具屋が建っていた。 

 

 チリリンと、軽快な音を立ててドアベルが鳴る。

これが合図だった。世界がある種の混沌へと変化する合図だ。

 入店した華扇をまず出迎えたのは、種々雑多な道具の数々だった。妖怪や、魔法使い、冥界の道具、果てには全くもって使用法の分からない外の世界などの道具が並んでいる。

 節操なく様々な物が並ぶこの道具屋は、秩序の無い混沌とした異世界と形容するに相応しいものだった。

 店中央には安楽椅子が置かれており、そこには一人の男が座っていた。

 銀髪の男の手には一冊の分厚い本があり、眼鏡越しにある金色に光る瞳は、そのページの一点を熱心に見つめていた。

 どうやらドアベルの音や、華扇の入店には気づいていないようだった。それ程までに彼は、一冊の本に没頭していたのだった。

 華扇は呆れたように溜め息をつく。そして、声をかけることにした。

「……お店を経営しているのに、そんな対応で大丈夫なのかしら。店主さん?」

 今でも自分の入店に気づかない、不思議な道具屋への店主に対して。

「―――はっ、い、いらっっしゃい! 今日はどんな用事かな?」

 突然の呼びかけに彼は、驚きのせいか少々戸惑った返事をした。顔にも少しだけ焦りが見られる。

 しかしそれも客が華扇だと認識すると、だんだんと薄れていった。

「……ってなんだ、君かぁ。驚いて損した気分だよ」

 やれやれと肩をすくめる彼。

全くもって断固、店を経営している人間が客にしてはいけない態度をしたこの人物こそが、この道具屋『香霖堂』の店主、森近霖之助なのだった。

「それで、今日はどんな用事なんだい? 宇佐見君との待ち合わせってわけでも無いみたいけど……」

 確認するように霖之助は店内を見渡した。だがやはり、霖之助と華扇以外に人は見られない。

 宇佐見とは、宇佐見董子という外の世界に住む一人の女学生だった。華扇と交友があり、たびたび会っていた。霖之助はそんな彼女たちに香霖堂を密会場所として貸し出していた。

 理由は善意などでは無く、外の世界の話や、物品などの利益が存在していたが故の貸し出しだったが。

 霖之助は不思議そうに首を傾げた。 

今回霖之助は、華扇が董子と会う話など聴いていなかったし、華扇がそれ以外の用事でここを訪れる筈が無いと思ったからだった。

 いまいち意図が掴めない霖之助に華扇は心外そうな顔をした。

「そんな深く考えることもないでしょう? 今日はただの客として訪れたのよ」

「あぁ、なんだ、そうだったのか。すまんね、そこまで考えが回らなかったよ。

 どうぞ、ゆっくりと僕の自慢の品の数々を見ていてってくれたまえ」

 ポンと、手を打ち納得した霖之助は、満足したかのように再び本へと顔を落とした。

 どうやら客よりも、今読んでいる本の方がよっぽど重要らしい。

 華扇は再び、盛大な溜め息をつくと、彼に勧められた通り、自慢の品々という物を見て回る事にした。

 

宝探しの始まりだ。

 

 霖之助の言っていた事は、やはり誇張でもなんでも無かった。

 紫色に妖しく光る水晶玉、天狗が使うような葉っぱの団扇、真ん中に穴の開いていて、表面が異国の文字で飾られた謎の円盤などなどなど、本当にここは色々な物が揃っており、華扇は舌を巻かざるをえなかった。

 そしてその中でも一際目を引いたのは……

「ねぇねぇ、店主さん。これは何なのかしら?」

 華扇は再び、霖之助を本の世界から呼び戻す。

彼女の手には細い帯状のものが握られている。表面には幾つかのボタンが並んでいた。

「―――ん? どれどれ。あぁ、それかい? それはね……」

 読書に集中していた霖之助は、邪魔された事に少しだけ顔をしかめたものの、律儀に説明をする。流石に商売人といったところだろうか。

「それは確か……言葉の通じない者との意思疎通が出来るようになる道具だね。

 例えば、動物みたいな者たちの考えを音声にする事が出来るのさ。

 外の世界の科学とやらの結晶の一つだよ」

巻くしたてるように最後まで続けた彼は、最後に「まぁ、動物の考えが分かるって噂の君には必要のない代物だけどね」と小さく付け加えると言葉を切った。

 だが、華扇は最後まで話を聴いていない。たった一つのワードに心惹かれていたのだった。

「動物との意思疎通……」

 ぼんやりと、熱に浮かされたかのように、そのフレーズを口にする。

「あ、あれ? 突然どうしたんだい、君」 

そんな華扇の急激な変化に疑問を抱いた霖之助は、心配そうに彼女の顏を覗き込んだ。

「これ、譲って頂けないかしら!」

「うわっ!」

 覗き込んだ瞬間の事だ、突然彼女は叫んだ。霖之助は驚いて、しりもちをつく。

 急激な変化に霖之助は着いていけていない。

「あ、あら、ごめんなさい。驚かせてしまったわ」

「いや、問題ないよ……」

 華扇の手を借りながら、何とか起き上がる。

 尻に付いた埃を払っている霖之助に華扇は改めて頼みごとをした。

「さっきも言った通り、店主さんにこれを譲って欲しいのです」

「はぁ、それをねぇ……でも君には必要の無い物何だろう? 動物の考えが分かるって聞いたし」

「緒事情により、必要なのです……ですから譲って頂けませんか?」

「と言われてもねぇ……」

 懇願するように両手を組む華扇に、霖之助は渋い顔を浮かべた。

「それは、さっきも説明した通り外の世界の技術の結晶だ。さらに、問題なく機能するのも確認済み。

とても貴重な品なんだよ。

 そして巷での僕の噂を知らないのかい?」

「えぇ、聞き及んでいますよ。『気に入った物をたびたび非売品にしてしまうダメ店主』だと」

 華扇の言葉に霖之助はさらに渋面を濃くした。

「……それを誰から聴いたか今は訊かないでおこう。

 まぁ、そういう事だよ。それは非売品なんだ。僕のお気に入りの一つだからね」

 返して貰うとでもいうように、首輪へと手を伸ばす。しかし、華扇はその腕をひらりと躱してしまった。

 霖之助は困ったような笑みを浮かべた。

「……流石に返してくれないと困るよ? 売り物じゃないんだからね」

「あら、そんな事を言っていて良いのかしら? ここでこれを手に入れると、もっと重要な『モノ』を失うかもしれないのに?」

「何を言っているのか分からないね。今、僕にとってはそれを失う事が最大の損失だよ」

 今度は少々怒気を含みながら、威圧するように言う。

 だが、華扇はそれでも不敵な笑みを浮かべているだけだった。

 霖之助はここまで来てなお、全く彼女の意図がつかめていなかった。このような自信がどこから出てくるのか、ただそれが不思議でならなかった。

 

そして、華扇は切り札を切る。

 

 「―――別に、密会場所をここから変えても良いのですよ?」

 

その一言で霖之助は全てを理解した!

 

霖之助は再び困ったように笑みを浮かべる。しかし今度の笑みには焦りが多分に含まれていた。

 華扇が持ちかけてきているのは、ある意味、外の世界の情報と物品の独占権利の行方だった。

 宇佐見董子との密会がここで行われている限り、彼にその権利がある。

 だが、もし密会場所が変わってしまったら? 霖之助は数少ない機会を失ってしまうのだ。

「―――目先の利益を取るか、未来の資産に懸けるか、ね……」 

不敵に笑う華扇に、霖之助は悔しそうに歯を食いしばった。

元より霖之助に選択権など存在しなかったのだ。

 はぁ、と残念そうに溜め息をつく。滅多に見かけないお宝だったのにという、彼の口惜しさが溜め息には成分多めで含まれている。

 

 かくして、彼が選んだ答えは……

 

 

 

 粗方話終えた華扇はふうと、息をついた。

これがこの首輪を手に入れた経緯と、効果らしい。

「……にしても、その店主さんには悪い事をしちまったなぁ。余程大事な品だったろうに」

 顏も知らぬ店主に、彼は同情した。脅されて大事な品を持っていかれるなど想像もしたくもない事だ。

「それなら大丈夫よ。だって同意の上だったもの。彼も後悔はしていないはずよ?」

 全く悪びれる事無く言う華扇に少々引き気味ながら、彼も善意だと思って割り切る事にした。

「それで使い方は?」とボタンを触りながら訊ねる。ボタン一つ一つの表面には、それぞれ違うアルファベットの文字が並んでいた。

「確か、これを首に巻いて…… ぼたん?、だったかしら? それを押すだけと店主は教えてくださいましたが……」

 言いながら、彼の首に首輪をつける華扇。

巻き付ける手つきはしっかりとしていたものの、言葉の端からは少し不安がにじみ出ている。   

 もしかすると、華扇自身、使い方がよく分かっていないのかもしれない。

 彼は華扇の体たらくに呆れたものの、慌てている彼女を見て、頬を緩めた。

 華扇の可愛い姿が見れたのだから、小さな事は気にしないでおこうと、彼が思った瞬間だった。

 

「―――それでは、えいっと」

 彼が惚けている間に、早速華扇は適当に、ボタンを押し込んだ。

書かれていた文字は―――E。しかし、彼らには、読み方などは分かりもしなかったが。  

 待つ事しばし、ようやくにして彼の願いは形をなす。

 彼が望んだ物が、求めていた物が、待ち望んだ物が今、その手に!

 

『ハロー、エヴリワン』 

  

 ……少々、彼の予想の斜め上を進んでいたが。

「今、何て言った! この首輪!」

 首輪から発された音声に戸惑いの隠せない彼。華扇の方の反応はというと存外、冷静な物だった。

「……意味はよく分からなかったけど、どこか異国の言葉のようね。なら、他のぼたんを押せば……」

「いやいや、ここで仙人らしく、冷静な反応を見せなくて大丈夫ですから。絶対、この首輪何か可笑しいですから」 

 だが、彼の制止も虚しく、華扇は次々とボタンを押していった。とりあえず、試していこうという精神なのだろう。

ポチっ

「ちょっ……」『……ふんぐるい、むぐるうなふ……』

「これでは無いわね…… 次の、えいっ」

「いや、待って、今の何だったの! 儀式みたいで怖―――」『でゅぅぅぅん! ジュワッチ!』

「次のを……」

「これやっぱりおかし―――」『WRYYYYYYY!』

 

 素早くボタンを代わる代わる押していく華扇。その顔には満面の笑みを浮かべており、まるで、新しいおもちゃを貰った子供のような姿だった。

 それに対して、彼の顔にはどこか疲れが見られている。おもちゃにされている所為なのであろう。

「これでも無かったわ、全く、どれなのかしら?」

「この状況を楽しんでるよな? なぁ、絶対そうなんだよなぁ!」

「よし、次はこれにしましょう!」

「だーかーらー!」

このやり取りは、華扇が全てのボタンを試すまで、終わる事は無かった……

 

「……おかしいわね、全部のぼたんを試したのに違ったわ。何故かしら?」

「……はぁ、最初から可笑しかったじゃないか……」

 不思議そうに首を傾げる華扇に、彼はいわんこっちゃないとでもいう風に言う。

 今の彼は疲労困憊と言った有様だった。

「でしたら、他にも色々と試すしかないですね。次はぼたんを同時に押してみるとか……」

「えぇぇぇ」

 しかし、華扇にまだ諦めは見られない。彼女の挑戦する姿勢はこの程度の事では崩れないのだ。

 

可能性という不確定要素が人を、未知の領域へと駆り立てる。

故に、彼らの飽くなき挑戦は今、始まった。

 

―――最後に付け加えるが、彼らには一つ見落としていた事がある。

そう、彼らは終ぞ気づかなかったのだ。首輪の裏に書かれた『DXボイスライブラリー』の文字に……

 

 

開け放たれた窓からさし込んだ夕陽が、店内を赤く染める。

染まるのは無論、本も例外では無かった。

「……むっ、もう夕方か―――」

 霖之助は、さっきまで熱心に読んでいた本から顏を上げた。

 体重を後ろにかけた事により、椅子が少々前後する。霖之助はこの微かな揺れを、しばしの間楽しむ。

 その中で、今日あった出来事を思い返してみた。

「結局、お客は彼女一人だったかぁ……それに今日は儲かる所か、お気に入りまで取られて。全く、ついてないよ……」

 深い深い、溜め息を一つつく。

「はぁ、今日あった事は当分、忘れよう―――うん?」

 今日あった出来事を綺麗さっぱり忘れよう、霖之助がそう決意した時、彼は視界の端に、ある物を捉えた。

 彼はそれに手を伸ばした。帯状のそれに向かって。

「あれ? これは……?」

 霖之助は自分の手の中にあるものが、何故ここにあるのか分からなかった。

 それは、彼が良く知っている代物だった。

 

―――そして、ここにあるはずが無い物でもあった。

 そう、彼が手に取ったものは……華扇へと譲ったはずの首輪だったのだ。

「……可笑しいな、確かにこれは彼女が持っていたはずなのに」

 華扇が忘れて行った? 否、彼女のような人間があんなにも欲しがっていた物を忘れて行くはずがない。

 霖之助に返しに来た? 論外だ、あんなにも欲しがっていたのだ、よっぽど重要な事に使うのだろう。なら、返すわけが無い。

 様々な可能性を考慮した結果、霖之助はたった一つの、馬鹿馬鹿しい結論に辿り着いた。

 

「……まさか、僕が間違えたのか?」

 

―――実はここには、この首輪と似ている品があった。

それの用途は、科学の結晶のこれとは天と地ほどの差がある―――子供の玩具。音声が出る事を楽しむという低俗な物だった。

つまる所彼は、それと、この首輪を間違えて華扇に譲ってしまったというわけだ。

「ふっふふっ、ははっ」

 そこまで考えついた所で霖之助は、つい笑い声を上げてしまった。

 あの時は、如何に焦っていたとはいえ、あのような品とこのような崇高な品を間違えてしまったのだから。

道具屋としては失格だ。

 散々一人で笑い散らした彼は、背もたれへと体を預ける。

 もし、華扇が文句を言いに来たときは、その時はその時だ。潔く譲ってあげようと、彼は考える。

「―――なにせ僕のミスでお客様がお困りなんだからね、そのぐらいの対応はしなきゃ店主失格だよ」

 誰に言うともなく、そう一人ごちると、彼は再び分厚い本へと顏を落とした。

 

 その本に書かれた異国の言葉は、幾ら時間をかけても彼には理解できなかったが。

 

 

 

……それと、後日再び来店した華扇と一悶着あったというお話は、また別のお話。